ふたりの出会いは、89年の舞台『盲導犬』(劇作家は唐十郎)。ジャニー喜多川社長が中居正広と木村を紹介し、17歳だった木村を起用したことに始まる。しかし、まだ遊びたい盛りの木村は、仕事よりも友だちと遊ぶ時間を優先してしまいがち。その鼻っ柱をヘシ折ったのが、蜷川さんだった。
練習では、灰皿を投げつけるパフォーマンスで精神的に追いこみ、そのストレスから木村は後ろ髪が白髪になった。怖くて、でも演じられないというジレンマから、稽古場のトイレにこもっては何度も泣いた。同物語は、新宿駅のコインロッカーが肝になっているが、稽古帰りに新宿のコインロッカー前を通ると、ほんとうに気分が悪くなったこともある。ところが、千秋楽を終えたころには、立派な舞台役者になれていた自分と対面して、プロの役者としての自覚が目覚めた。この世界で生きていこうと決断した瞬間でもある。
そもそも、蜷川さんはこれまで多くのタレントをジャニーさんから紹介されている。なかには中居のように落選した例もあるが、少年隊、元男闘呼組の岡本健一、V6の坂本昌行、長野博、森田剛、岡田准一、嵐の二宮和也、松本潤、KAT−TUNの亀梨和也、上田竜也、そして生田斗真などは、その後のタレント人生をガラリと変えられている。ステージに立つ素晴らしさを体感したことによって、拠点をテレビから舞台にシフトチェンジした者も少なくない。岡本や坂本、森田などが、まさにそうだ。
特に岡本は、『PLAYZONE』で大成した少年隊に続くミュージカルスターを育てようとした89年の候補生のひとり。ジャニーズの蜷川作品の第1号目だ。バリバリのアイドルだった19歳のとき、初舞台にして松坂慶子とのダブル主演で『唐版 滝の白糸』に出演。演出が蜷川さんだった。ここで先の木村同様、自身の脱却を図ることに成功している。
そのおよそ4年後、男闘呼組は突如活動休止を余儀なくされたが、岡本は寿命が短いアイドルから舞台役者としての足場を着実に固めていたため、46歳になった今なお、定期的にステージに立っている。今でもジャニーズ事務所に籍を置いていることから、その信頼度の厚さがうかがい知れる。
さらにいうなら、SMAP結成前後の木村がもっとも憧れていた先輩こそが、この岡本だ。ギターや洋服を数えられないほどもらい、しょっちゅう食事に誘ってもらっていた。ひとり息子は、Hey!Say!JUMP・岡本圭人だ。ジャニーズ初の親子2世代アイドルなのだ。
こうして、蜷川作品に縁のあったジャニーズタレントを押し並べて見ると、やんちゃで野性味があって、ガキである反面、中性的でもあるという共通点がある。その審美眼もやはり、超一流だったのだ。