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80年前の沖縄決戦末期 砲撃指揮者、米軍司令官を打ち取る

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バックナー中将戦死碑

80年前の1945年3月末から始まった沖縄戦は、米軍が日本軍を沖縄本島南部に圧迫し、終盤に向かっていた。運命の6月18日13時15分糸満市真栄里の小高い丘を視察に来た第10軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が砲撃にあい戦死した。リアルライブ編集部は、独自調査で慰霊碑を訪れた。

戦死現場の慰霊碑は、傾斜の急な階段を上った頂上左側にあり、木々の隙間を通して、日本軍が砲撃をしたと思しき南方の低い山並みを望むことができる。

砲撃を指揮した石原正一郎中隊長は、親交のあった沖縄戦研究家の上原正稔氏に次のように話したという。「真北の断崖上の大物を狙え。全弾発射!」と命令を下した。榴弾砲2門が次々と発射され初弾が目標地点に命中し、黒い煙が上がった。全弾を射尽くす前に敵の反撃が始まった。砲弾がビュンビュン飛んできて、一発の敵砲弾が榴弾砲の端に命中し、その榴弾砲は使えなくなった。石原中隊長は砲弾の破片で腰を負傷し、動けなくなり、米兵に捕まり、野戦病院で手術を受けたそうだ。

東京で病床に伏していた石原氏に、沖縄テレビの山里孫在記者が戦後60年企画でインタビューした。石原氏は「砲弾も残り少なくなり、米軍の大物を探していたら、一見偉そうな一団が現れ、これだと思い発射を命じた。ダメージを与えた感触はあった。戦後になって、相手がバックナー司令官だと分かった。上原氏の導きで将軍の遺族と石原氏は恩讐を越えて和解している。


摩文仁の洞窟に篭る日本軍第32軍司令部がバックナー中将の戦死の報を知るのは、3日後の21日夜になってからである。八原博通高級参謀(作戦主任)の手記「沖縄決戦」によると、参謀総長、陸軍大臣連名の決別電報で知ったと記している。アメリカ第10軍司令官の死は我々にとって初耳で有り、驚愕すべきビッグニュースであった。私はわが牛島(満)将軍の自決(6月23日)に先立ち、敵将を打ち取ったことに無上の愉悦を感じた。沖縄作戦に、わが日本軍が勝ったかのような錯覚を覚えたほどである。

バックナー米陸軍中将は第二次世界大戦で倒れた最高位の軍人となった。6月19日には陸軍96歩兵師団クローディアス・M・イーズリー准将も狙撃されて戦死し、慰霊碑も隣接して建っている。この地は、米軍にとっては将軍2人が戦死する呪われた地となった。
九六式十五糎榴弾砲

バックナー中将を砲撃したとされる野戦重砲兵第1連隊(連隊長・山根忠大佐)の九六式十五糎榴弾砲は靖国神社遊就館に展示されている。

取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部

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