照屋 健吉
1949年(昭和24年)宮古島市生まれ。琉球大学大学院修士課程修了。沖縄テレビにて記者として勤務後、現在はOK不動産代表取締役。
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社会 2025年10月18日 12時00分
沖縄リゾート開発競争 三井不動産・三菱地所が首位争いに
沖縄県で2010年代後半からリゾート開発が進み、現在は三井不動産、三菱地所が優位な状況となっている。リアルライブ編集部は、沖縄県の開発について独自の視点で解説をしていく。三井不動産が運営するハレクラニ沖縄は2019年7月26日に沖縄本島西海岸・恩納村に開業した。コロナまん延の直前に沖縄で初めて5つ星の評価を受けることになる敷地4万坪の本格的リゾートホテルだ。この地は県内でも砂浜が美しいと評判の場所で、先にUSENが手を付けて頓挫していた場所を三井不動産が引継ぎ大規模なリゾート地として開業にこぎ着けた。開発許認可に携わった人によると、海岸国定公園内の開発規制、景観の調和の審議、保安林の解除移転などの手続きに七転八倒したとのこと。開業後すぐにコロナ禍に見舞われるが、沖縄県のリゾート施設では競業他社から唯一の勝ち組とうらやましがられたという。三井不動産がハワイに展開する老舗ホテル・ハレクラニの名称を継ぐ2番目のホテルとして開業した効果が大きかったようだ。コロナ禍でハワイに行けない旅行者が、沖縄に来るようになった。来てみると距離的に近くて便利、ホテルの設備が新しい、ワイキキに勝るとも劣らない海浜の環境の良さが旅行者の琴線に触れたようだ。ホテル関係者によると40~50万円の高額な部屋の予約が先に埋まるという。ハレクラニ沖縄は、世界80か国以上で一流のホテルやスパの評価をする「フォーブス・トラベルガイド2025」において、ホテルとスパの両部門で2年連続となる最高評価の5つ星を獲得している。ハレクラニ一方の三菱地所は宮古島に集中投資している。伊良部大橋の起点に近いトゥリバー地区の約4万坪を同社が2017年購入、手始めに300室を超えるヒルトンホテル宮古島を開業した。その後、3000メートルの滑走路を持つ下地島空港の管理権、平良港に隣接するアトールエメラルドホテルの買収。香港資本の高級ホテル、ローズウッドの今年開業。更に、トゥリバー地区の二期工事として建設中のキャノピーbyヒルトン沖縄宮古島リゾートが来春の開業を控えている。トゥリバー地区は、合併前の旧平良市が、離島振興の目的で埋め立てを開始、2000年には工事が完成し売却する予定であったが、甘すぎた目論見が外れて売却先が外資に渡るなど二転三転して時間が経過。17年後にようやく三菱地所というパートナーにたどり着いた。三菱地所が宮古島にマン振りする中で、空港などの交通インフラが整い、気候や景観も良いことから他社のホテル建設も相次ぎ、今や宮古島はバブルと言われる土地の高騰が続いている。取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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芸能 2025年10月04日 12時00分
沖縄米軍政、実体験者が見た映画「宝島」 エピソード過多で「焦点がぼやける」
沖縄を主題にした映画が立て続けに2本封切られた。苛烈な伊江島での戦争を藪の中のガジュマルの木に立てこもって戦後2年もの間生き抜いた宮崎と地元出身兵の実話をもとにした「木の上の軍隊」と、沖縄の混沌の時代を圧倒的な筆力で描写し、直木賞を受賞した真藤順丈氏原作の「宝島」の映画版である。以下は1949年に沖縄に生まれ、幾らかでも米軍政の実態を体験した記者の率直な意見であることを断っておく。「木の上の軍隊」は、二人の兵士が情報を遮断された中で軍人としての矜持(きょうじ)と葛藤を乗り越えていく過程を克明に描いた傑作で有るように感じた。一方、題名が魅力的な「宝島」は、上映時間が3時間11分と長く、冗長で騒々しい映画というのが記者の感想である。主人公たちは戦果アギヤー(共通語に直せば戦果を挙げる人たちという意味)と呼ばれる戦災を生き抜いた若者たちである。敵であった米軍の物資を密かにあるいは堂々と盗む行為は戦争の継続と同じという理由から犯罪という認識はなかった。衣食住、医薬品あらゆる物資が不足する中で、物量があふれている米軍基地から分捕る戦果アギヤー達は、現在の物流業者の役割を果たしていた英雄であった。嘉手納基地に忍び込み戦果獲得を目指したリーダー・オン(永山瑛太)が行方不明となり、その行方を捜すことを伏線として映画は進行する。その過程で主人公のグスク(妻夫木聡)は刑事、オンの弟・レイ(窪田正孝)はヤクザ、ヒロインのヤマコ(広瀬すず)は教師になる。戦火に晒された沖縄では、米軍以外の公権力は機能せず、強いものがリーダーとなる下剋上の時代であった。すべての秩序が無力となり目端の利くものが成り上がる、自由な気風に満ちていた。映画では米軍人をカモにして稼ぐコザ特飲街の女たち、教師となったヤマコが日本復帰を求めて奔走する姿、反米機運を取り締まるアメリカ軍情報部の将校、悪石島の密貿易と多くのエピソードを詰め込んで進行する。映画の終盤に描かれた1970年12月のコザ暴動の描写は、息つく暇もないほどの迫力である。これほどの熱量でコザ暴動を描いた映画は他には見たことがない。しかし、全体としてみた場合、密貿易、ヤクザの抗争、沖縄の民衆の宴会や葬儀のシーンなど細切れのエピソードを詰め込み過ぎで焦点がぼやけているように感じる。もし、他の観客がいなければ、席を立っていたかもしれない。そんなむずむずした気持ちを抑えながら最後まで見てしまった。取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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社会 2025年09月07日 12時00分
沖縄戦、9月7日降伏調印 サンフランシスコ講和条約までアメリカ軍統治下に
1945年9月2日、戦艦ミズーリ号で連合国が日本政府と降伏調印式を行い、太平洋戦争は正式に終結。その2カ月以上前の6月23日、沖縄守備の第32軍司令官牛島満中将が自決して沖縄戦は事実上の終わりを迎えたこととなる。沖縄は島嶼県で宮古島に陸軍第28師団と2個旅団、石垣島に陸軍1個旅団と海軍部隊(先島集団軍)、奄美大島に1個旅団と海軍部隊が残っていた。沖縄を占領したアメリカ陸軍は、終戦後、宮古島に輸送機を差し向けて、第32軍で生存していた最高位の先島集団軍司令の第28師団長納見敏郎中将を呼び出して嘉手納基地内で9月7日に、降伏調印式を挙行した。降伏文書バックナー中将が糸満市で戦死した後にアメリカ第10軍の後任司令官となったスティウェル大将が主催して納見中将、奄美群島守備の陸軍高田利貞少将、海軍奄美群島司令官加藤唯雄少将が降伏文書にサインをして日本軍が正式に降伏、武装解除に進むことになる。降伏文書を見ると降伏の範囲が緯度経度で示され、北緯30度の十島村口之島以南、東経122度尖閣諸島から東など、第32軍の守備範囲と思われる地域が示されている。口之島から南の十島村の島々は1952年サンフランシスコ講和条約により日本に返還されるまでアメリカ軍の統治下に入った。尖閣については、アメリカは戦後の早い時期に島々の測量を行い実効支配の基礎を築いた。測量はアメリカ海軍が主体となって行い、1951年5万分の1の地図が作成されて、複写が沖縄県立図書館郷土資料室に保管されている。アメリカ政府は、施政権は日本にあるが、主権の帰属は未定との立場をとっている。少なくとも、アメリカ軍は尖閣諸島が琉球(沖縄)の範囲に含まれていると理解していたと言えないだろうか。中国、台湾に配慮して国益を重視する国際関係の冷酷さを垣間見ることができる。さて、降伏文書にサインした納見中将のその後である。納見中将は師団司令部のある宮古島に帰り、1945年12月13日野原越司令部の宿舎で毒を仰ぎ自決した。自決の原因については、納見中将が上海憲兵司令官当時の俘虜取り扱いからBC級戦犯に指定されたからとの記述がみられるが、加えて、陸軍のエリート軍人としての誇りが捕虜となることを避けたためとも思われる。米軍嘉手納基地には1964年に降伏式が行われた場所に記念碑が建立された。降伏碑取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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スポーツ 2025年08月29日 17時00分
沖縄尚学優勝、“沖縄教育界のカリスマ”の信念が結実
第107回甲子園高校野球は沖縄代表の沖縄尚学高校が準決勝で山梨学院を5対4で破り、決勝に進出すると、沖縄では甲子園ツアーの申し込みが殺到。関西行きの定期便は満席となり、甲子園を目指す人々で近隣の空港行きも売り切れが続出、中には遠回りして台北経由関空で観戦ツアーに行く人もいたようだ。旅行会社は急きょ、朝6時発関空行きJTA便を手配。甲子園には試合開始20分前に着くという日帰りの弾丸ツアーを急造。このツアーで甲子園観戦に行った友人は、奇跡的に座席を確保し、アルプス席で観戦することができた。3塁アルプス席は団体割引600円で見たが、中には出没したダフ屋から1万や2万円で入場券を買った人もいたという。窓口で当日買ったら1000円だそうだから法外なぼったくり料金だ。緊迫した好試合が展開されたことからダフ屋料金でも、お買い得だったと話していたそうだ。日大三高に1点先行されても、すぐ取り返すナインの活躍に、なぜか負ける気がしなかったと友人は話す。3対1で日大三高を破り優勝を飾った瞬間、3塁スタンドは総立ちとなり、期せずしてウエーブが発生、歓喜の感情が爆発した。居酒屋は、来客が1.5倍に増えたと地元の琉球新報が報じている。沖縄尚学は7月13日の県代表決勝で新興エナジックスポーツを9対1の大差で下して沖縄代表になった。病気療養で入院していた学園創設者の名城政次郎名誉理事長は、看護師の代表選出を伝える言葉に体力の限界の中からVサインで答え、2日後の未明94歳の生涯を閉じた。多くの沖尚関係者は、名城名誉理事長の強い思いが選手たちの活躍を後押ししたはずだと話している。名城名誉理事長は、1930年生まれで「文武両道のたくましい進学校」を目指し、1983年に前身の沖縄高校を継承して沖縄尚学高校を創設、1991年から学校法人化し、尚学学園の理事長を長年務めた。沖縄教育界の輝けるカリスマとして、多くの人材育成につとめた。一方、沖縄尚学の指揮を執った比嘉公也監督は1999年春選抜に沖尚の投手として出場、春夏通じて初の沖縄代表全国制覇の立役者となった。母校の監督として育てたプロ選手は、ソフトバンク東浜巨、嶺井博希、巨人のリチャードと活躍している。沖縄教育界のカリスマ、名城名誉理事長が育てた沖縄尚学は、比嘉監督という指導者を得て、更なる高みを目指す。取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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トレンド 2025年07月25日 12時50分
ジャングリア、オープン プレオープンでは賛否両論
沖縄観光の起爆剤として期待されているテーマパーク「JUNGLIA OKINAWA(ジャングリア沖縄)」(以下、ジャングリア)が本日、7月25日に開業した。リアルライブ編集部は独自取材を決行。オープン前の同パークは、構内が見えないように目隠しされ、入り口にはガードマンが立入りを規制している物々しさであった。海外から来た親子連れが来ていたところを見ると海外でも注目されているのだろうか。ジャングリアのある今帰仁村呉我山は、那覇空港から約2時間と遠く、道路は片側1車線。車が押しかけた場合は大渋滞が発生し、地元民の移動などに重大な影響が出るのではないかと懸念されてきた。交通渋滞対策として、駐車場の受け入れ可能台数を考慮してチケットの販売数量を設定するようだ。進入路から見えるバルーン那覇空港、提携ホテル、海洋博公園などの拠点から事前予約で受け付けた有料のバスを運行。テーマパーク内駐車場(1100台)は予約制にして進入する車両を制限する。これらの対策で交通混雑を回避できると考えているようだ。プレオープンに行った人の意見をネットで調べると評価する一方、酷評も見られる。交通渋滞に加えて、ジャングリアのアトラクションが満足の行くものか、しばらく様子を見ないと成功か失敗かの結論は出せない。とは言え、初の大規模テーマパークは沖縄北部振興の切り札として期待感は高まるばかりだ。初日には入場システムに一部トラブルが生じたようだ。久米島オーシャンジェット社の下地幹郎会長は、11月には同社のジェットフォイルを那覇から本部町エキスポ港まで運行を予定し、年間17万人を送客する計画だ。地元の不動産業者に聞くとジャングリア効果で地価が高騰、アパートの需要が高まり、家賃が爆上がりしているそうだ。地元民にも歓迎されるテーマパークとなるか、時間がかかりそうだ。取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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社会 2025年06月28日 12時00分
80年前の沖縄決戦末期 砲撃指揮者、米軍司令官を打ち取る
80年前の1945年3月末から始まった沖縄戦は、米軍が日本軍を沖縄本島南部に圧迫し、終盤に向かっていた。運命の6月18日13時15分糸満市真栄里の小高い丘を視察に来た第10軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が砲撃にあい戦死した。リアルライブ編集部は、独自調査で慰霊碑を訪れた。戦死現場の慰霊碑は、傾斜の急な階段を上った頂上左側にあり、木々の隙間を通して、日本軍が砲撃をしたと思しき南方の低い山並みを望むことができる。砲撃を指揮した石原正一郎中隊長は、親交のあった沖縄戦研究家の上原正稔氏に次のように話したという。「真北の断崖上の大物を狙え。全弾発射!」と命令を下した。榴弾砲2門が次々と発射され初弾が目標地点に命中し、黒い煙が上がった。全弾を射尽くす前に敵の反撃が始まった。砲弾がビュンビュン飛んできて、一発の敵砲弾が榴弾砲の端に命中し、その榴弾砲は使えなくなった。石原中隊長は砲弾の破片で腰を負傷し、動けなくなり、米兵に捕まり、野戦病院で手術を受けたそうだ。東京で病床に伏していた石原氏に、沖縄テレビの山里孫在記者が戦後60年企画でインタビューした。石原氏は「砲弾も残り少なくなり、米軍の大物を探していたら、一見偉そうな一団が現れ、これだと思い発射を命じた。ダメージを与えた感触はあった。戦後になって、相手がバックナー司令官だと分かった。上原氏の導きで将軍の遺族と石原氏は恩讐を越えて和解している。摩文仁の洞窟に篭る日本軍第32軍司令部がバックナー中将の戦死の報を知るのは、3日後の21日夜になってからである。八原博通高級参謀(作戦主任)の手記「沖縄決戦」によると、参謀総長、陸軍大臣連名の決別電報で知ったと記している。アメリカ第10軍司令官の死は我々にとって初耳で有り、驚愕すべきビッグニュースであった。私はわが牛島(満)将軍の自決(6月23日)に先立ち、敵将を打ち取ったことに無上の愉悦を感じた。沖縄作戦に、わが日本軍が勝ったかのような錯覚を覚えたほどである。バックナー米陸軍中将は第二次世界大戦で倒れた最高位の軍人となった。6月19日には陸軍96歩兵師団クローディアス・M・イーズリー准将も狙撃されて戦死し、慰霊碑も隣接して建っている。この地は、米軍にとっては将軍2人が戦死する呪われた地となった。九六式十五糎榴弾砲バックナー中将を砲撃したとされる野戦重砲兵第1連隊(連隊長・山根忠大佐)の九六式十五糎榴弾砲は靖国神社遊就館に展示されている。取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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社会 2025年06月21日 12時00分
西田参議院議員「アメリカが入ってきて沖縄は解放された」発言に強いハレーション ひめゆりの塔で歴史認識、再確認
筆者は、沖縄の梅雨明け宣言の日となった6月8日にひめゆりの塔を訪れた。苑内(えんない)に入るとガジュマルの大木の枝が、照り付ける太陽を遮り、清涼な空気に満ちて、霊域であることを実感させる。リアルライブ編集部は、ひめゆりの塔について独自取材を実施。西田昌司参議院議員が沖縄で開かれた憲法シンポジウムの講演で「ひめゆり平和資料館の説明ぶりは日本軍が入ってきてひめゆり隊が死に、アメリカが入ってきて沖縄は解放された」と発言したと報じられ、全県的に強いハレーションを引き起こした。県議会、市町村議会が抗議決議をし、石破茂総理が玉城デニー沖縄県知事に陳謝する事態となった。思い付きで事実と異なることを受け狙いで公言することは、厳に慎むべきで言うまでもない。この批判の大合唱について西田議員は月刊誌「正論」7月号で「発言訂正の真意」と題する釈明の寄稿をしている。その肝は、「アメリカが入ってきて沖縄は解放された」という歴史認識が問題というものだと思った。ひめゆりの塔平和祈念資料館沖縄戦の住民の体験記などを調べると、軍と協力して米軍と必死に戦ったとする一方で、沖縄南部に避難した人々が隠れたガマ(壕)を日本兵によって追い出され戦場をさまよい、なけなしの食料を強奪。果てはスパイ容疑で味方と頼った兵士に殺害されたとの証言がみられる。沖縄県公文書館所蔵写真言論統制下に常勝日本軍と喧伝し、住民が頼った兵士が、戦場で住民に牙をむく。住民は失望を通り越して、裏切られたと怒りを引き起こし、味方が敵だったとの認識を与えるものだろう。米軍は戦場で物量に任せて無慈悲に殺りくする一方、投降した住民や兵に対して、食料を与えて保護したのだ。勝者の余裕と宣撫工作という側面は否定できないが、戦場の体験は間違いなく日米兵士の違いを認識させるものだ。沖縄県公文書館所蔵写真平和資料館は否定しているが、現象面では日本軍が入ってきて、必死に傷病兵の看護をしたひめゆり学徒隊が死に、アメリカが沖縄を解放したと言える側面は否定できない。歴史は、事実を基に組み立てられるべきで、たとえそれが受け入れがたいものであっても、未来への警鐘として甘受するべきだと思う。筆者は京都選出の野中広務元官房長官から「タクシー運転手が、嘉数のあの場所で妹が日本兵に殺されたと泣いて訴えた」と聞いた。京都出身兵は宜野湾市嘉数台で勇猛果敢に戦い多くが倒れ、沖縄戦全体で2536柱が京都の塔に祭られている。西田議員の発言には、野中氏が草葉の陰で泣いていると言わざるを得えない。取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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社会 2025年06月14日 12時00分
実名報道と匿名報道 人権意識の高まりで、実名公開に二の足踏む警察・報道
沖縄の新聞が事件事故に関して紙面では実名報道を原則としながら、ネット記事では匿名報道をしているのはなぜかと疑問が寄せられた。初めに沖縄の新聞社の事情についておさらい。沖縄本島には創業130年を超す老舗の琉球新報、戦後に創業した沖縄タイムスの2社がある。販売部数、売り上げが拮抗するライバル関係にあり、ともに共同通信の配信を受けている。取材、販売競争をする一方で、購読料金は同額、休刊日を同日にするなど談合ともいえる体質だ。沖縄タイムスはコロナの持続化給付金の不正受給詐欺で逮捕された社員を匿名にしたことで批判をされ、下記のように釈明している。「インターネット上では、一度掲載すると情報が拡散されて長く掲載され、全てを消すことが困難です」警察の逮捕で容疑者として実名で報じた後、不起訴や裁判で無罪になるケース、刑期満了後もネット上に長く残り続ける事で当事者が不利益や迷惑を被る恐れがあるともしている。この態度は、社員容疑者に対す態度としていかがなものかと疑問を感じる。一方で例外として政治家や幹部公務員などの公的立場の人、有名人の事件事故、社会的に甚大な影響を及ぼすような殺人、連続強姦、放火、子どもが巻き込まれるような重大事件では実名で報道することもあると言い訳もしている。ライバルの琉球新報の編成局長に見解を聞いたが、現時点で返答がなく社の方針を聞けなかった。代わりに事件事故報道経歴の長い部長級ベテラン記者に実情を聞くことができた。最近の傾向として警察の事件事故匿名広報が増えていることに一端があると答えている。このように警察が及び腰になっている理由は、逮捕検察送致後に釈放されるケースがあることを挙げ、また、刑事裁判まで行って無罪になった場合、被告とされた人が報道を取り消すよう求めてもネット報道は取り消しが困難で、消去不可能なデジタルタトゥーとなる恐れがあると話している。筆者が地元沖縄の記者をしていた20~30年前には、警察は交通事故や米軍関係で逮捕者が出た場合、実名でためらうことなく広報し、記者も疑問を持たず警察情報を記事化していた事を思い出す。デジタル化と人権意識の高まりで、時代に合わせて警察広報、マスコミ報道も変容してきたと言えそうだ。取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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社会 2025年06月07日 12時00分
沖縄から400キロ離れた孤島にまで韓国人の慰安婦が 慰安婦たちの名前が刻まれたリスト 強制連行された可能性も
ラサ島と聞いてピンとくる方はかなりの事情通である。ラサ島は行政的には沖縄県島尻郡北大東村に属する沖大東島である。一番近い有人島の南大東島から南に160キロメートル、沖縄本島那覇市から南東約408キロメートル、面積1.1平方キロメートルの孤島だ。戦前は肥料の原料のリン鉱石を産出する島として最盛期には2000人の工夫が働いていたというから、戦前戦後を通じて沖縄県最大の鉱山であった。全島が東京都千代田区外神田に所在する上場企業ラサ工業の所有で、同社の社名の由来となっている。現在は、米軍の射爆場で立入ることはできない。リアルライブ編集部は、ラサ島の慰安婦について独自取材を行った。ラサ島位置図戦時中この島には陸軍の守備隊、海軍の電波監視隊等300人余が駐屯していた。陸軍の守備隊(森田隊)が1944年4月に上陸した当時は、リン鉱石の採掘の為、ラサ工業の社員らも在島していたが、米潜水艦による3度の砲撃、B24爆撃機による攻撃など戦局の窮迫で在島のラサ島社員ら500人余は1945年1月下旬までに順次退去した。それに先立って1944年11月の船便で慰安婦7人が送られてきた。森田芳雄守備隊長(陸軍中尉)は著書「ラサ島守備隊記」で「突然厄介なシロモノがやって来た。番頭の卜部某というものにつれられた韓国人7人の慰安婦のことだ」と当惑の感想を記している。筆者は戦後50年の節目の年に沖縄戦関連の資料収集過程で森田氏の「ラサ島守備隊記」に出会い、会社の会長を務めていた東京在住の森田氏からラサ島の様子について聞くことができた。森田氏は、守備隊の日々の記録をしたためた陣中日誌を引き上げの際に密かに持ち帰り、その記録を基に島の風物、生活、戦闘の状況、住民との関係、慰安婦などを著書「ラサ島守備隊記」に仔細に記していたのである。陣中日誌には慰安婦のリストも一覧表にしてまとめてあることが分かった。慰安婦リストが存在していることを指摘した研究書をネットで探したが、見つけることができなかった。今回公開することにしたリストは、沖縄県公文書館、防衛省戦史室の二箇所で閲覧できる。リストには本籍、氏名、芸名、年齢、旧楼名が書いてるのはご覧の通りである。いかにも商売を思わせる旧楼名所属は5人、19歳の二人には所属がない。このリストが何を意味するか研究者でない私には分析できない。慰安婦リスト森田氏によると、引率の卜部氏は、故郷が同じ福岡県。南方に行こうと沖縄まで来たとき第32軍司令部の参謀からラサ島は緑の天国別天地だと勧められてれてきたが、当てが外れたと嘆いていたそうだ。ともあれ、慰安所は1944年11月26日から西海岸部落北端職員長屋の空き家において営業を開始した。しかし、船便の補給が続かず、兵士も給料を貰えないために、2カ月程度で開店休業となり、女性たちは軍の使役となり食料を支給されて引き上げまで過ごしていたようだ。引き上げの際には、女性の一人と恋仲になった将校が、二人で島に残ると申し出たが、説得して連れ帰ったと森田氏は話していた。森田氏は当時を回想し「女性たちと互いに恨みっこなしに別れた」と回顧。陣中日誌は帝国陸軍作戦要務令で作成を義務付けられている公文書で、軍機に属するために敗走した日本軍陣地から米軍が回収したものがわずかに残っているだけで、系統だって現物が残っているのは森田氏の陣中日誌のみで貴重な沖縄戦の記録となっている。1995年は戦後50年で村山談話などもあり、時あたかも韓国との間で微妙な時期で、慰安婦のリストがある陣中日誌について、森田氏は表に出したくないように見えた。森田氏はかつての上官や防衛省戦史室の意見も聞きながら、陣中日誌の原本を沖縄県公文書館に、その精巧な写しを防衛省戦史室に寄贈した。取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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社会 2025年05月17日 10時50分
豊かな海、埋め立てるべきか相克する沖縄
沖縄県浦添市西海岸に隣接するショッピングセンター「サンエーパルコ」から見下ろす海は、都市部に残る亜熱帯の豊饒(ほうじょう)な海である。この海が那覇港湾施設こと通称「那覇軍港」の移設先に決まり、49ヘクタールの広大な埋立て前の調査作業が進行中である。県内には自然が残る貴重な海を埋め立てるべきではないとの根強い反対論があるが、防衛省、県、那覇市、浦添市が2023年4月20日に那覇軍港の代替施設設建設「浦添軍港」に合意した。現在、防衛省が岩盤の強度を調べるボーリング調査などを実施している。リアルライブ編集部では、独自で現場取材を実施した。浦添軍港案 防衛省のホームページより事の始まりは、那覇市のど真ん中に位置し56ヘクタールの広大な面積を有する米軍那覇軍港を半世紀前に日米が返還合意したことである。返還に当たり、米軍が代替港湾施設を要求して行き先を見付けられずにいたのである。米軍は基地返還に当たっては基地機能の維持を理由に代替施設を要求する傾向がある。読谷村(よみたんそん)にあった電波傍受施設の楚辺通信所、通称「象の檻」は、キャンプハンセンの奥深くに移設された。普天間飛行場は移設条件が付き、市民運動の反対に直面しながらも辺野古で工事が進行しているのはご承知の通りだ。浦添軍港案広域 防衛省のホームページより米軍は陳腐化した基地機能の更新強化、日本政府は安全保障上のチョークポイントと言われる沖縄にアメリカ軍を引き止めるメリットがあるようだ。移設先の浦添市は、埋め立てを最小限にするために長い間、抵抗の姿勢を示していたが、南側に縮小して移設することを条件に防衛省、県、那覇市と合意にこぎ着けた。松本哲治浦添市長は、軍港受け入れは本意ではないとの意向をにじませながらも「返還されるキャンプキンザーの再開発への国、県の協力を得るために苦渋の決断だった」と話していた。一方で沖縄県の玉城知事は普天間基地の辺野古埋め立て移設には強く反対しているが、同じ海を埋め立てる浦添軍港には同意している。この矛盾した二重基準には支持母体から疑問が呈されている。代替地に選定された浦添西海岸は、陸地側の兵站基地、キャンプキンザーの返還が決まり、夕日が見える都市型リゾートとしての発展が期待されている場所である。市民のいこいの場となっている海を維持したいとする心の叫びの一方では、悪化する安全保障環境に協力することで得られる経済的利益の戦いが始まろうとしている。遠い将来に米軍の駐留が終わると港湾施設という巨大なインフラが残るメリットが救いかもしれない。取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部
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社会
沖縄リゾート開発競争 三井不動産・三菱地所が首位争いに
2025年10月18日 12時00分
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芸能
沖縄米軍政、実体験者が見た映画「宝島」 エピソード過多で「焦点がぼやける」
2025年10月04日 12時00分
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社会
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2025年09月07日 12時00分
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スポーツ
沖縄尚学優勝、“沖縄教育界のカリスマ”の信念が結実
2025年08月29日 17時00分
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2025年07月25日 12時50分
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2025年06月28日 12時00分
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社会
西田参議院議員「アメリカが入ってきて沖縄は解放された」発言に強いハレーション ひめゆりの塔で歴史認識、再確認
2025年06月21日 12時00分
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実名報道と匿名報道 人権意識の高まりで、実名公開に二の足踏む警察・報道
2025年06月14日 12時00分
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沖縄から400キロ離れた孤島にまで韓国人の慰安婦が 慰安婦たちの名前が刻まれたリスト 強制連行された可能性も
2025年06月07日 12時00分
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社会
豊かな海、埋め立てるべきか相克する沖縄
2025年05月17日 10時50分
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社会
沖縄で新たなテーマパーク「JUNGLIA OKINAWA」今夏オープン パークエリアとスパエリアの2つで構成
2025年05月02日 19時29分
