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競輪人国記 京都(1)

 京都といえば松本勝明の名がまずあげられる。昭和24年6月の登録から16年半で競輪選手未踏の千勝を達成した。
 競輪の創成期に圧倒的な強さを誇った大阪勢の連係プレーの中では、ひとり特殊な存在であった。

 昭和40年12月13日の後楽園競輪、ボーナスをもらったばかりの競輪ファンでスタンドは超満員だった。前日の特選で千勝を達成できなかった松本は準決で長谷川昇(栃木)の追い込みを抑えて、ついに金字塔を打ち立てたのである。
 昭和29年川崎・日本選手権の完全制覇、翌年の30年には大阪中央でも勝って日本選手権競輪を連覇、そのほかにも特別競輪の記録は残る。
 27年の高松全国都道府県選抜千メートル、29年地元向日町の800メートル、30年高松4千メートル、31年名古屋の1200メートル、いずれも全国都道府県選抜での活躍である。
 「本当は医者になりたかった。学費稼ぎではじめた競輪が一生の仕事になった」
 松本はとにかく練習熱心だった。競走のないときには時間を決めて練習にいく。その時間は途中通る電車の踏切番が時計の遅れを直すほど正確だったという。
 引退するまで松本はさらに341勝した。通算1341勝の記録は、もう誰にも破れない。現役最多勝の神山雄一郎(栃木)が最近やっと700勝を達成したが、現在のレースでは千勝も達成は不可能に近い。
 口の悪い向きは「あのころは1日2回乗りがあったからね」というが、そんな苦しさを乗り超えての輪界最多勝は、なんと言おうと価値がある。
 引退後、松本は競輪学校の特別教官になって競輪学校生徒の指導に当たった。そして平成6年には高原永伍(神奈川)の引退をきっかけに名輪会が結成されたが、松本は会長としてファンサービスに努めている。
 こんなエピソードもある。滋賀の中井光雄にはライバル心を燃やしていたが、大津から比叡の山登りをする中井と、長岡京市の自宅から比叡に上がる松本が頂上に着くのはいつも同じ時間だったという。
 高原に対しては「永伍ちゃんは凄い。先行だけであれだけの成績を上げるのだから…」とほめていた。たしかにまくり勝ちの多かった松本だが、まくり勝負は自分だけが届くケースも多く、マーク型は置いて行かれてしまう。追い込み選手にとっては早めに先行してほしいのだが、その辺は自分が勝てるところから仕掛けるのはプロ選手として当然だ。
 競輪競走は1対8の闘いで、他人のパワーを使って追い込むマーク型に、ぐずぐずいう権利はないのだ。
 松本は勝ちに徹した。そして相手いかんではトップも引いた。競走の成立にも後期のころには協力した。

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