リアルライブ編集部は、ラサ島の慰安婦について独自取材を行った。

戦時中この島には陸軍の守備隊、海軍の電波監視隊等300人余が駐屯していた。陸軍の守備隊(森田隊)が1944年4月に上陸した当時は、リン鉱石の採掘の為、ラサ工業の社員らも在島していたが、米潜水艦による3度の砲撃、B24爆撃機による攻撃など戦局の窮迫で在島のラサ島社員ら500人余は1945年1月下旬までに順次退去した。
それに先立って1944年11月の船便で慰安婦7人が送られてきた。森田芳雄守備隊長(陸軍中尉)は著書「ラサ島守備隊記」で「突然厄介なシロモノがやって来た。番頭の卜部某というものにつれられた韓国人7人の慰安婦のことだ」と当惑の感想を記している。
筆者は戦後50年の節目の年に沖縄戦関連の資料収集過程で森田氏の「ラサ島守備隊記」に出会い、会社の会長を務めていた東京在住の森田氏からラサ島の様子について聞くことができた。森田氏は、守備隊の日々の記録をしたためた陣中日誌を引き上げの際に密かに持ち帰り、その記録を基に島の風物、生活、戦闘の状況、住民との関係、慰安婦などを著書「ラサ島守備隊記」に仔細に記していたのである。陣中日誌には慰安婦のリストも一覧表にしてまとめてあることが分かった。慰安婦リストが存在していることを指摘した研究書をネットで探したが、見つけることができなかった。
今回公開することにしたリストは、沖縄県公文書館、防衛省戦史室の二箇所で閲覧できる。リストには本籍、氏名、芸名、年齢、旧楼名が書いてるのはご覧の通りである。いかにも商売を思わせる旧楼名所属は5人、19歳の二人には所属がない。このリストが何を意味するか研究者でない私には分析できない。

森田氏によると、引率の卜部氏は、故郷が同じ福岡県。南方に行こうと沖縄まで来たとき第32軍司令部の参謀からラサ島は緑の天国別天地だと勧められてれてきたが、当てが外れたと嘆いていたそうだ。ともあれ、慰安所は1944年11月26日から西海岸部落北端職員長屋の空き家において営業を開始した。しかし、船便の補給が続かず、兵士も給料を貰えないために、2カ月程度で開店休業となり、女性たちは軍の使役となり食料を支給されて引き上げまで過ごしていたようだ。
引き上げの際には、女性の一人と恋仲になった将校が、二人で島に残ると申し出たが、説得して連れ帰ったと森田氏は話していた。森田氏は当時を回想し「女性たちと互いに恨みっこなしに別れた」と回顧。
陣中日誌は帝国陸軍作戦要務令で作成を義務付けられている公文書で、軍機に属するために敗走した日本軍陣地から米軍が回収したものがわずかに残っているだけで、系統だって現物が残っているのは森田氏の陣中日誌のみで貴重な沖縄戦の記録となっている。1995年は戦後50年で村山談話などもあり、時あたかも韓国との間で微妙な時期で、慰安婦のリストがある陣中日誌について、森田氏は表に出したくないように見えた。森田氏はかつての上官や防衛省戦史室の意見も聞きながら、陣中日誌の原本を沖縄県公文書館に、その精巧な写しを防衛省戦史室に寄贈した。
取材・文/照屋健吉 リアルライブ編集部