一見だろうが十見だろうが、そしてたとえ百見だろうが、客をまったくかまおうとしない店主は、かつてこの店に出入りしたらしい故田中小実昌氏(作家)や故吉村平吉氏(風俗評論家)や、現役でご活躍の小林のり一さん(俳優)らに目もくれず、背中で注文だけを聞いて黙々とモツを焼いた(であろうと思われる)。それあってこそ、ひとりで安心して、なんにも考えずに酒が飲めようというものではございませんか。
らっしゃい、という威勢のいい店に行きたいような夜は、どこか心眼が曇っている。ましてターさんなどという甘い声を聞きたくなるような夜は、心に鵺(ぬえ)が鳴いている。わたしは断じて銀座のクラブなどというものは好きではない。「アルドンサ」だけはもう一度行きたいけれど…。
カウンターに置きっぱなしの、かねて気になっていた沖縄の香辛料をモツヤキにかけてみることにした。小瓶の中味は薄茶色、シマトウガラシではない。
これが効いた。築地場外の鮪丼屋で、練りワサビを追加注文して訝(いぶか)しがられたこのわたしが、辛さに往生して、シェパード犬のようにベロを口外に出した。
後から効くのは、冷酒と親の小言だけではない。口内の炎上はいっかな収まらない。わたしは思わず口数少ないお手伝いのおねえさんに、コレハズイブントカライモノデスネエ、と訴えた。おねえさんは、わたしが文句を言っていると思ったらしい。ご亭主に報告した。報告を受けたご亭主は、コレハ辛イゾ、とでも紙を張っておきますかと笑っている。
わたしは、ハラナイデオイテクダサイ。カケタヤツヲミテイルタノシミガヘルデショーニ、と申し上げるのがやっとだった。冷やしトマトをそういう。
残らず食べて、やっと人心地した。隣席の方が心配して「ダイジョーブデスカ」と声をかけてくれた。なんだ、普通のいい店じゃあないの。
帰りがけにコップに書かれている文字を読むと、「ムズカシイ話は明日にしてね」。
いまはムズカシイことを、考えることさえできない。
予算1400円
東京都港区新橋3-10-4