search
とじる
トップ > その他 > 競輪人国記 京都(3)

競輪人国記 京都(3)

 荒木実の視力は、当時の規定値の0.6より下だった。荒木は視力を上げる涙ぐましい努力をして23期で合格した。
 23期といえば阿部道、阿部利美の宮城勢がいた。荒木は卒業記念の決勝には出られなかったが、在校成績3位で卒業した。昭和49の高松宮杯、相手は国持一洋(静岡)太田義夫(千葉)新田計三(徳島)久保千代志(北海道)らの若手精鋭。
 太田の後ろに国持が付いたが、矢村正(熊本)-新田のラインが抑えて、国持は紛れて8番手。その国持がまくって、荒木が追走、国持のまくりの脚をもらって「びわこ道」を一気に突き抜けた。

 「それから国持と乗り合わせても競りにはいかなかった。なにせ宮杯をとらせてくれた相手ですかね…。人情からいっても競りなんかできない」
 翌50年は決勝には参加したが、9着に終わり昭和51年の宮杯は、ゲンを担いで49年に優勝したときと同じ服装で参加したという。
 オレンジ色のポロシャッに真っ白いズボン。当時としては派手なスタイルで乗り込み、2回目の宮杯タイトルを獲得した。岩元幸明-松本秀房-恩田勲の熊本勢に藤巻昇(北海道)が飛びついて番手をキープ、桜井久昭(東京)もまくったところを荒木が「びわこ道」といわれるカント4分目のところから仕掛けてあっという間に頭に突き抜けて2度目の制覇を遂げた。
 絶好の番手にいた藤巻が泣いて悔しがったという。チャンスのあった桜井も半べそをかいた。
 「宮杯を2回獲れば近畿の選手として満足でしょう。自分もよくやったと思いますよ」と荒木は素直に喜びを表した。
 荒木の強さには血を吐くような練習の毎日があった。弱体になった近畿勢をなんとかしようと、今名輪会のメンバーの松本勝明、中井光雄、石田雄彦が音頭をとって近畿若手の合宿もはじまった。丹波篠山方面の合宿、遠くは鳥取の大山まで足を延ばすハードな合宿が始まった。もちろん自分の練習は別だ。朝に弱い荒木は9時頃に家を出ると街道、バンク練習と夕闇があたりを包むまで練習を重ねた。
 昭和43年の高松宮杯の一次予選、荒木の肉体は限界に来ていた。顔見せが終わり出走までの30分間、控え室のソファで爆睡していた。レースには出て3着に入ったが、そこまでが一杯。控え室に戻るや吐いて即、救急車で入院してしまったほどだ。
 追い込みだけではなくまくりも強烈だった荒木。いまはユニークな解説者としてファンに受けている。すごい京都なまりの解説や自分で下手だという和歌などを披露しているのも面白い。
 追い込みで活躍した吉岡隆伸(27期)はレッドソックスの松坂大輔みたいな可愛い顔をして結構強引に競っていた。

関連記事


その他→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

その他→

もっと見る→

注目タグ